1.新潟町誕生と『元和のまちづくり』


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<「古新潟絵図(新潟古図)」新潟市歴史博物館蔵>

古代の新潟

渟足柵(ぬたりのき)
大化3年(647)、朝廷は渟足柵を作りました。(支配地域に組み入れるための施設)

越後国域確定1,300年と蒲原津
かつて越後国と呼ばれた国域の範囲は、和銅5年(712)に出羽国(現在の山形県と秋田県)が成立したことにより確定しました。
平成24年で現在の新潟県の“かたち”が確定して1,300年になりました。
信濃川河口の蒲原津は越後国の国津(公的な港)で、人や物資の集まる交通の要所でありました。

中世の新潟

荘園と蒲原津
平安時代の末期以降、荘園・保ができ、越後の武士が荘園を現地で経営し、開発を進めていきました。 鎌倉幕府が成立すると、荘園の経営は幕府から地頭に任じられて、移住してきた関東の武士に代わり、彼らはさらに開発を進め、支配権を強めて在地領主となりました。 蒲原津は越後国主が支配する公領でありました。

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<市域周辺の荘園・保>

南北朝の動乱と蒲原津

建武2年(1335)、越後における南北朝の動乱が始まりました。加地荘(現新発田市)の加地氏と天神山城(現西蒲区)の小国氏が、舟運の拠点である蒲原津をめぐって激しい争奪戦を繰り返しました。この戦いの記録に、阿賀野川河口右岸の沼垂湊が現れました。当時の沼垂湊は、加地荘の領域でありました。

蒲原津から新潟津へ
戦国時代の永正17年(1520)の高野山清浄寺の『越後過去名簿』に、「新方」の人が供養を依頼した記録に新潟という地名が書かれており、新潟の地名が書かれている最も古い記録であります。その他にも、永禄7年(1564)に京都の醍醐寺の僧が越後を訪れ、旅籠に長逗留し蒲原各地を回りました。その時に書かれた旅日誌の中にも「ニイカタ」と書かれています。
新潟津は信濃川河口左岸にあり、蒲原津・沼垂湊とあわせて、当時「三か津」と呼ばれていました。越後の戦国大名上杉謙信は、三か津に配下の代官を置いていました。
新潟津が現れてから蒲原津は衰え、新潟津が信濃川・阿賀野川河口の中心的な湊となりました。

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<三か津のころの河口付近・推定位置関係>

新潟津と越後統一
天正8年(1580)、阿賀北の武将新発田重家が新潟津を占拠し、上杉景勝との抗争が始まりました。上杉方は木場城(現新潟市西区)を造り新潟津を攻めましたが、容易に攻略できませんでした。天正14年(1586)、新発田方に味方していた新潟・沼垂の町民たちが上杉方へ寝返り、上杉方は新潟・沼垂を制圧することができました。
新潟津を失った新発田氏は翌天正15年に滅ぼされ、越後国は上杉景勝によって統一されました。
(「新潟市のあゆみ 港と田園に育まれた都市」抜粋)

古新潟町(現在の旭町・大畑方面)

近世の幕開け
慶長3年(1598)1月、豊臣秀吉は上杉景勝を会津に移封しました。同年4月、秀吉は越前北庄(現福井市)城主の堀秀治を春日山(現上越市)城主に、加賀大聖寺(現加賀市)城主溝口秀勝を新発田城主に任じました。この時、現在の新潟市域の信濃川以西は堀秀治領、以東は溝口秀勝領となり、新潟湊は堀秀治領、沼垂湊は溝口秀勝領となりました。慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いがあり、徳川家康が幕府を開きましたが、越後の大名はすべて領地が安堵されました。その後、慶長15年(1610)に堀氏は改易され、代わりに家康の六男である松平忠輝が入り、その忠輝も元和2年(1616)7月に改易されました。忠輝の領地は分割され、堀直寄が長岡城主に任じられて、新潟はその領地となりました。また、旧三島郡や旧西蒲原郡などには幕府領が設けられ、出雲崎に置かれた代官所が支配しました。

堀直寄
堀直寄は長岡城主になって間もない元和2年(1616)11月、新潟町へ「諸役用捨之覚」9か条を出し、従来からあった沖ノ口役(出入り船舶への課税)、商人役、あい物役(塩干魚税)、室役(麹屋税)、天秤荷役役(行商人税)、あさそ役(麻苧税)、かき役(戸割税)、蔵役(質蔵・酒蔵税)、節供酒手役(節句に納める酒代)を免除し、多くの船が湊に入り、商人が自由に商売できるようにして新潟町の繁栄を図りました。9か条の筆頭に挙げられた沖ノ口役の免除は正徳3年(1713)に仲(新潟湊を出入りする船荷の課税)が設けられるまで、約100年間も続きました。
江戸時代の初め、沖ノ口役を免除する湊振興策は、新潟以外でも採られていました。酒田湊では宝永5年(1708)、江戸の商人が湊の過口銭(移出入税)の徴収を領主から請け負い、年間2,500両を上納すると申し出た時、最上川沿岸地域の村々は、「荷物を酒田へ通さず陸路で新潟へ運び、新潟から船で諸国へ送る。新潟には役銀がないので、過口銭を納めるより安上がりである」といって反対をしました。直寄は、元和3年(1617)7月、新潟町に新町、材木町、洲崎町の町建てを命じ、町の拡大を図りました。

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『新潟町肝煎任命に付き達書』元和3年(1617)7月1日/堀直寄文書/新潟市歴史博物館蔵

※新たな町を作るにあたり、肝煎を任命することを代官に指示した文書であり、肝煎とは新潟町の近世初頭の商人たちで、直寄は代官の下で彼らによって新潟町の町政を運営しようとしていました。

元和の町建て
元和3年(1617)に堀直寄が新たな町を作るように命じた場所は、現在の東中通よりも海岸側にありました。『古新潟絵図』によれば、砂丘の上に寺町があり、川寄りに古町・本町などがあったことがわかります。しかし、この後信濃川に土砂が堆積して湊が浅くなったため、明暦年間(1650年代)に新潟町は寄居・白山島へ移転し、島の東側を湊としました。この町が現在の古町地区になります。
<「新潟湊の繁栄-湊とともに生きた町・人-」「絵図が語るみなと新潟」抜粋>

寛永8年(1631)、洪水により加茂屋堀が決壊。阿賀野川・信濃川河口が合流し、信濃川流路が浅くなる。船の停泊が困難になり、近くにある島(白山島・寄居島)に新潟町を移転。承応3年(1654)、新潟町の移転が幕府より許可される。明暦元年(1655)、新潟町の移転が完了。これにより、現在の新潟古町の町区が形成されることになる。

移転の経緯
寛永15年(1638)、長岡藩が幕府に新潟町の移転を申請しました。
洪水(寛永8年)以来、新潟町と寄居島・白山島と呼ばれた中州との間にの信濃川流路が浅くなるなどして、船が停泊できなくなり、湊として不便になりました。移転の理由は、信濃川の川筋が変わり町民が不自由しているためで、近くにある白山島と寄居島に移転しました。

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<江戸時代初頭の阿賀野川・信濃川河口概念図>
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<「古新潟之図」新潟町が現在の旭町・大畑方面にあったころの街並み>

承応3年(1654)、新潟町の移転が幕府より許可されました。
同年には移転先に片原川(東堀)、寺町川(西堀)、白山堀(一番堀)、新津屋小路堀(二番堀)、広小路堀(四番堀)、御祭堀(五番堀)を掘削する工事が始まりました。
明暦元年(1655)には、新潟町の移転が完了しました。移転前の新潟町は現在の東中通よりも海岸側でした。
<「新潟湊の繁栄-湊とともに生きた町・人-」抜粋>

1.新潟町誕生と「元和のまちづくり」 2.古町誕生と「明暦のまちづくり」 3.明暦以降の新潟町 4.日本海有数の賑わい交流拠点への発展
5.みなとのカタチ   6.江戸後期の新潟町  7.開港5港  8.明治・大正・昭和